江戸の家屋は木造で、屋根までも板で葺いてあったので、江戸では火事が頻繁に起った。そして大火事の後には、必ず復興のための材木需要が起きたので、材木業者には紀文(きぶん)・奈良茂(ならも)などの豪商が多かった。江戸開府当初、材木問屋は道三堀(どうさんぼり)や八代洲河岸(やよすがし)など江戸城に近い河岸に店を構えていたが、その後江戸市街の発展や、材木置場が火事の温床となっていたこともあって、幕府は何度も材木置場の移転を命じた。そして最終移転地になったのが深川木場(ふかがわきば)である。元禄十四年(1701)に十五の材木問屋が、深川の南の海岸近くに、幕府から土地を買い受け、ここに掘割と土地を造成して材木置場を造り、材木問屋もここへ移転して材木市場を開いた。そして材木置場を意味する木場(きば)がこの地の呼び名となった。
木場の四方には土手が築かれ、縦横に六条の掘割が掘られ、掘割の十ヶ所には橋が架けられた。材木は主として掘割の水の中に浮かばせて貯木した。ところが江戸湾が満潮となると、海水がこの掘割まで差し込んできて材木にしみ、かえって防虫の役目を果たす結果となったという。水面に浮かんだ材木に乗って、他の材木を巧みに操っているのは、川並という人足である。
木場一帯は、水郷的景観に富む場所であった。この絵は雪の降りしきる中の木場の情景である。手前の番傘(ばんがさ)に描かれた魚の字は版元「魚栄(うおえい)」の一字を拝借してきたものである。
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