この絵で中央を流れている水路は、昔向島や本所方面へ水を供給するために、北埼玉郡蒲生村瓦曽根溜井の元荒川を水源として掘削された亀有上水である。後に上水の機能を停止してからは、水路の両側にあった田圃の灌漑用に使用されるようになり、名前も四ツ木用水と改名した。この水路の上流はまた水上交通路としても利用されていて、人間が船を引いていた。その引舟の有様は、このシリーズの「四ツ木通用水引ふね」(参照 名所江戸百景No.33)に示されている。
この水路が、向島の小梅村を通る部分の堤防を小梅堤と言った。小梅村は、西は隅田川に臨み、東北には秋葉権現社のある請地村があり、また南は、北十間川が境となっていた。小梅村の由来については、この村の西方の田圃の中にあった、三囲稲荷社の創建と関っているとされている。すなわち、昔弘法大師がこの社の神体を彫っていたとき、洒水器(しゃすいき)(密教の香水器)の中に一粒の梅を得た。その梅が牛島(小梅村の旧名)に生じて、そこを梅が原と称した。これから小梅村の名が付けられたとされるものである。この絵の水路に架かる一番手前の橋を八反(たん)橋と言った。昔梅の木の立っていた土地の広さが八段(たん)あり、この地を「八段梅」と言われたことから、この橋の名前が付けられたと言われている。
この水路の右岸、この絵では対岸の堤防の上の道は水戸街道の脇道で、亀有で本道に合流し、新宿の渡しで中川を渡り、徳川御三家の一つの水戸家のある水戸へ通じていた。
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