昔千住は荒川(あらかわ)(隅田川の上流)の北岸にあって、千手(せんじゅ)観音がこの辺りの川で拾い上げられたために付いた名前だという。ここは鎌倉時代に既に、奥州(おうしゅう)へ向かう道沿いにあって宿場が開けていた。江戸時代に入ると奥州街道に加えて、水戸街道、佐倉街道、日光街道などが通る交通の要衝(ようしょう)として、江戸から最初の宿駅に制定された。
徳川家康は江戸の防衛上、川には橋を架けさせない方針であったが、交通量の多かった千住は例外で、文禄三年(1594)にここの架橋を許した。これが千住大橋で、隅田川に架けられた最初の橋である。
ここの宿場はもともと千住大橋の北にあったが、後に南の町屋も宿場に加えられ、これから北千住、南千住の呼称が生まれた。また、北は大名や武家の宿泊する本陣(ほんじん)や脇本陣(わきほんじん)があって、本宿(もとじゅく)とか上宿(かみじゅく)とか呼ばれていたのに対し、南は下宿(しもじゅく)と呼ばれていた。幕府の参勤交替制下で、この宿場を利用した大名は、寛永期(1624-1644)に、奥州37、日光4、水戸23の計64家におよんでいた。
この絵の手前が南千住で、対岸が北千住である。川岸には荒川の上流秩父(ちちぶ)の山々から筏(いかだ)で運んで来た材木を扱う材木問屋が並んでいた。また千住は周辺で穫れる米や野菜の集散地でもあった。遠景の山並みは、日光街道が果てる辺りの西側に広がった日光の山々であろう。
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