蓑輪は千住(せんじゅ)宿の南、奥羽・日光街道沿いにあって、昔は原宿町とも呼ばれた。千住大橋が架かる以前、荒川(千住橋の下流を隅田川という)が増水して、川止めにより渡れなかった時には、旅人が泊る宿駅があったからである。ここより西方に金杉村と三河島村があり、両村ともに古くからの農村であったが、荒川の南の低地にあったため、荒川が氾濫(はんらん)すると農耕地が浸水する地帯であった。従って湿地帯が各地に点在し、放鷹(ほうよう)に適していて、将軍家の御鷹場(おたかば)があった。
三河島の湿地帯へは、毎年十一月下旬から翌年二月下旬まで渡り鳥の鶴がやって来た。羽の黒い鍋鶴(なべづる)が多かったが、この絵に見えるのは、鶴の代表格とされる大形で美しい丹頂(たんちょう)である。幕府によって鷹場に指定された村は、それぞれの領主の支配を受けたばかりでなく、幕府の任命した鳥見役という名の領主の支配をも受けた。鷹場の近くには鶴の餌付場が設けられていて、その周囲には竹矢来(たけやらい)や藁(わら)をめぐらせ、人間や犬が入って鶴を驚かさないようにと、厳重に取り締まられていた。
鷹狩りは、家康がとくに好んでいたこともあり、歴代の将軍も、武術の鍛錬と民情視察を兼ねて鷹狩りに出掛けている。将軍が鶴を捕えるために放鷹することを「鶴御成(つるおな)り」といい、三河島へは、将軍吉宗(八代)、家斉(十一代)、家慶(十二代)がよく出掛けたという。
江戸時代の百五十年間に、将軍がここへ訪れたのは二千回に及んだという。将軍が自ら鷹を放ち、捕えた鶴は、一羽づつ白木の箱へ納めて、京都の天皇へ献上するのが普通であった。
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