徳川家康は、荒川(隅田川の上流)の洪水から江戸市中を守るため、全国の大名に命じて、浅草寺の北方、聖天町(しょうでんちょう)から蓑輪(みのわ)までの間に、十三丁(1.5km)ばかりの堤防を築かせた。堤防の土は真乳山(まつちやま)を削って運び、六十余日間で完成させたという。
日本中の大名が賦役(ふえき)して築いた堤であるので、日本堤(にほんづつみ)となったという説もあり、またこの堤が出来る前に、この近くに同様の堤があって二本になったので、始めは二本堤と呼んでいたが、これがいつのまにか字を変えて、日本堤になったのだという説もある。(参照 名所江戸百景No.34)
江戸日本橋葭町(よしちょう)にあった幕府公認の遊廓吉原が、風紀上の問題と、明暦三年(1657)の大火によって焼失したのを機会に、幕府はこの遊廓を、日本橋から遥か僻地の浅草北の田圃へ移転するように命じた。指定された場所は、日本堤の中間の南側であって、ここに建設された公認の遊廓が新吉原と呼ばれるようになった。以来、日本堤は舟で新吉原通いをする人々の通り道に変身した。遊客たちは日本橋や柳橋の船宿から舟で隅田川を遡り、山谷堀(さんやぼり)で降りて日本堤へ上り、それからこの絵に示されているように、徒歩か駕籠(かご)で新吉原へ向かった。馬の使用は許されなかった。堤の中程まで進み左手の衣紋坂(えもんざか)を下ると右手に番所と高札場(こうさつば)、左手に見返(みかえ)りの柳(やなぎ)があった。その先には不夜城といわれた豪華絢爛を誇った新吉原の家々の屋根が煌々(こうこう)と光っていた。
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