徳川家康は江戸城へ入府後、江戸の東北の鬼門にあった神田明神を、江戸の総鎮守と定めて篤く保護した。この神社は最終的には天和二年(1616)に湯島台地の現地へ移築された。祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと、大国主命の別名)と江戸っ子に好まれた平将門の2神である。
神田明神の氏子は、神田、日本橋、京橋など六十町に及んだ。その祭礼には大変な費用が掛かったので、山王権現社の山王祭と一年交替で行なわれていた。秋に執り行なわれた祭礼には二基の神輿、三十六台の山車、その他に、踊り台などの練り物が善美をつくして飾られ、行列を作って氏子の町内を練り歩いた。江戸城へは田安門から入り、将軍の上覧に供した後、竹橋御門から退出した。このため、この祭礼は山王祭と共に天下祭と称された。
広重はこの絵に華々しい祭礼を描くのではなく、神社で何らかの神事か興行のある日の早朝の静寂な情景を選んで描いている。『東都歳時記』によると、春に九座の太太神楽(だいだいかぐら)が、拝殿内に舞台を作り、社前へ桟敷を設けて興行したと記録している。この絵は、朝日が昇る前から神官や巫女たちがその準備をしているのであろうか。桟敷らしき物が既に設けられているともとれる。
神田明神は台地の上に建っていたので、ここから眺める眼下の町屋や、その先の広々とした海原の景色は素晴らしかった。ここはまた初日の出、月見、雪見の場所として江戸の人々に親しまれていた。(参照 名所江戸百景No.9筋違内八ツ小路)
>> 専用額について詳しくはこちら