千束の池は、昔千束郷の大池と呼ばれていた。ここは武蔵野南部にある湧水池であるとも、またこの池より約十町北にある清水窪の水が流れて来て出来たとも言われている。江戸時代この池の水は、近村の田圃を灌漑するために使われていた。
千束と言う名の由来の一つにつぎのような説がある。弘安五年(1282)に身を病んでいた五十六歳の日蓮上人が、臨終が遠くないことを予感して、身延山から常陸の湯治場へ行く途中、この池のほとりで休息し、足を洗ったので洗足(せんぞく)の名前が起ったとする説である。また日蓮上人は足を洗った時に、袈裟を脱いで松に掛けたとされることからその松は袈裟掛松という名が付けられた。この松は池の東岸にあり、柵に囲まれて立っていた。
武士でありながら、旅行好きであった村尾嘉陵は、文政十一年(1828)に千束池を訪れ、その紀行文の中でつぎのようにいっている。「袈裟掛松の高さは五丈(9m)あまり、幹の太さは凡そ三抱えばかり、そして枝が四面を覆って垂れていた。また池の西北岸には、松が茂った小高い所があり、そこを八幡山といい、その山の上に八幡宮が建っていた」と。この絵の対岸に、松の木に囲まれて、どっしりと建っているのが八幡宮であろうか。
池の手前の道は中原街道である。海岸に沿って江戸へ入る東海道に対して、この街道はその西側の丘陵地を通って江戸へ入る要路であった。徳川家康が江戸へ入府する時に通ったのが、この街道だとされている。またここより東南へ向かって東海道の品川宿へ出る池上道があり、その途中のここより半里(2km)ほどの所に、日蓮上人が寂滅した池上本門寺が建っていた。
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