芝浦は、汐留橋から高輪辺りまでの海浜を指した。ここには多くの漁師が住んでいて、雑魚場(ざこば)といわれる前面の海で小魚を獲っていた。美味な魚が多く、江戸っ子たちはここで獲れた魚を芝肴(しばざかな)と称して賞味した。のちになって、この肴は江戸の前で獲れたから「江戸前(えどまえ)」と名付けて珍重するようになった。
芝浦の北端近くに浜御殿(はまごてん)があった。この絵の右側、石垣の上に松が青々としている所がそれである。ここは寛永の頃(1642-44)までは葦が茂っていて、将軍家の鷹狩場であった。四代将軍家綱(いえつな)の弟綱重(つなしげ)は、ここを譲り受けて下屋敷を建て、邸内に庭園を造った。その子の家宣(いえのぶ)が六代将軍として江戸城へ移って行ったことから、この屋敷を浜御殿というようになった。この御殿は夏の暑い時には、将軍の避暑地としても使われたと言われている。
御殿前の海中には御留杭(おとめぐい)と称する木組みが4本立っていて、水位が分かったので船はこれを見て浅瀬を避けながら進んだ。浜御殿の先の沖に、土盛りがいくつか描かれている。近いように見えるが、これらは幕府が黒船撃退のために、品川の御殿山(ごてんやま)を削った土で、品川沖に築いた御台場である。(参照 名所江戸百景No.28) 近景に、海上を何羽も飛んでいる鳥は百合鴎(ゆりかもめ)である。平安時代の歌人在原業平が、隅田川を渡る時に、和歌に詠んだ都鳥とは、この鳥であった。
ここより北にあった江戸湊から南の品川までは、関西方面から江戸へ消費物資を運ぶ船が白帆を上げて頻繁に行き交う海であった。
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