南品川から目黒川に沿って、海中に牛の舌のような格好をした洲が北へ向かって伸びていた。ここは目黒川河口にできた寄洲で、この洲を品川洲崎と呼んでいた。ここに住んでいた漁師たちは、幕府の御膳所へ魚を献上する義務を負う代わりに、この地での漁撈を許され、舟に乗って四ツ手網や、手繰(てぐり)網を使って魚を獲っていた。洲崎の北端には除災を司る弁財天を祀る弁天社が建っていた。
品川は東海道最初の宿場町であり、街道筋に沿って旅籠屋、料理屋、あら物屋、煮うり屋などが数百軒、軒を連ねていた。旅籠屋の中には、旅人の給仕をし、売春をもかねた飯盛女(めしもりおんな)と称する女を置いていたものもあった。こうした女の多い旅籠屋は遊女屋とも呼ばれた。この宿場の東は海であり、街道の東側に建った料理屋や遊女屋から眺めた海の景色は絶景であった。この絵の左下隅に描かれているのは、有名な遊女屋「土蔵相模(どぞうさがみ)」である。
品川沖の海上に防波堤のように見える2基の土塁は、幕府が米国のペリー提督が率いる艦隊から江戸を守るために、近くの御殿山を削り取った土で築いた御台場(砲台)である。この絵の右方の枠外にさらに三基が並んでいて、台場は合計五基あった。これらは品川沖にあったことから品川台場とも言った。(参照 名所江戸百景No.28)
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