昔、江戸城から南方の愛宕山の麓まで田圃が広がっており、田圃には畦道が縦横に通っていて、そこには数多くの桜の木が植えてあった。そのためこの田圃を桜田と呼んでいた。江戸城ができると桜田は桜田門によって二分され、この門の内側を内桜田、外側を外桜田と呼ぶようになった。
この絵は江戸城の桜田門から、内堀越しに糀町の方面を俯瞰した眺めを描いたものである。江戸城を取り巻いていた内堀のこの区間は2人の大名が西東に分かれて掘り、その功を争ったため、西東(せいとう)は、僧弁慶が住んでいた、比叡山の西塔(せいとう)に通ずるという理由で、この堀に弁慶という名を冠したとされている。今はこの堀は桜田堀と呼び、弁慶堀は紀の国坂沿いの堀をいっている。この絵の右は、江戸城の土手である。頑丈な石垣の基礎の上に、芝土居という緑の芝生で覆われた土手があった。広重はこの土手に生えた松の木までも描いている。
この絵の左手の、邸内に多くの木が立った赤い門のある屋敷は、彦根藩主井伊掃部頭(かもんのかみ)の上屋敷である。その前の堀に沿った道は糀町へ通じていて、この道の傍らには、所々に有名な清水が湧き出ていた。井伊家の前にある清水は「桜ヶ井」、その先の、道が曲がった所にある番所の裏の清水は「若葉の井」と呼んでいた。内堀に沿った道をさらに進むと、武家屋敷のある糀町があった。この町は江戸幕府を開府した徳川家康の命令で、武士たちを住まわせるために造成された、江戸で最初の町であった。広重はこの武家屋敷に立った火の見櫓を二つ描いている。右側の火の見櫓は、幕府の定火消(火消役)の屋敷に立っていたものである。町人の住む糀町はこの屋敷に続いてあった。
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