市ヶ谷は、江戸城西の市ヶ谷御門を出て外堀を渡った地域一帯を言った。昔ここに市が立っていて品物が売買され、それを市買と書いたことから、市ヶ谷の名前が付いたと言われる。
室町時代中期の武将であり、歌人であった太田道灌は、江戸城を築城した最初の人であり、また江戸城の鎮守として、鎌倉の鶴岡八幡を勧請して市ヶ谷八幡を創建した人である。江戸幕府もこの八幡を保護し、江戸時代の当初は、江戸城の市ヶ谷御門の内にあったのを、寛永年間に、外堀を工事した折に、この絵の岡に移築した。この岡の中腹の鳥居の背後には、世俗茶木稲荷という社が建っていて、眼病にかかった者が祈願すると、霊験あらたかだといって、多くの参詣者が集ったという。また、石段を上りきった、本社のある境内の一角には鐘楼があり、幕府公認の時の鐘として、庶民達に毎刻鐘の音を響かせていた。
市ヶ谷八幡の岡の麓には門前町が開け、美人をおいた水茶屋が軒を連ね、芝居小屋や楊弓場もあって江戸有数の盛り場の一つとなっていた。水茶屋とは、湯・茶を飲ませ、往来の人を休息させる店で、茶見世ともいった。
この絵の市ヶ谷八幡の左方に高い火の見櫓が見えている。これは徳川御三家の筆頭、尾張徳川家の中屋敷内に立っていたものである。
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