江戸初期の町の大半は低地であり、井戸を掘っても江戸湾からの塩水が入っていて、良質の飲料水を得ることが出来なかった。そこで徳川家康は家臣の大久保忠行に命じて、江戸へ水を供給するために神田上水を建設させた。この上水は井の頭池を水源とし、永福寺池の下流、善福寺川、玉川上水の分水、井草川などの水を取り入れ、小石川のこの絵の関口に達していた。せき口という名前は、この絵の水路の下流に水を貯める洗堰(あらいせき)があったことから付けられた。
ここで堰止められて水位を上げた水は台地の中腹を伝わって水道橋に至り、懸樋を通って神田川を越え、江戸城内や神田、日本橋の町屋へ給水されていた。
延宝五年から八年(1677~80)にかけて、この堰堤の改修工事が行なわれ、この間俳聖芭蕉は生活費を得るため、この工事に従事した。この地が近江の瀬田に似ていたことから、彼は「五月雨に 隠れぬものや 瀬田の橋」という句を詠んだ。この句に因んで芭蕉を師として仰ぐ人たちが50周忌を記念して、上水沿いの岡の中腹に芭蕉庵を建てた。それがこの絵の右端に描かれている。この庵のある岡は古くから椿の木が多くあったので椿山と呼ばれていた。
付言すると、芭蕉は、この工事に従事していた頃は、35歳前後で、まだ芭蕉の号は名乗っていなかった。芭蕉の由来を尋ねると、まず38歳の時に、弟子から贈られた芭蕉の株を、深川の自庵に植えたことから芭蕉庵の名が始まり、つぎに翌年の39歳の時に、俳友宛の書簡に芭蕉と署名したことから芭蕉という俳号が始まったことがわかる。
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