八代将軍吉宗は享保二年(1717)に隅田川の東岸の堤を、江戸町民が気軽に行ける遊山場所にしようとして、ここに数多くの桜の木を植えさせた。それ以後も何度か桜の木が補充され、ここは「隅田川の桜」と言われる江戸有数の桜の名所となった。
この桜並木の北端近く、隅田川岸のやや高い土地に水神の森があり、そこに水神社が建っていた。この土地は、周囲が洪水になっても水をかぶることはなかったという。そのためか、この水神は水難除、火難除の神として、船頭たちばかりでなく、一般庶民からも篤い信仰を得ていた。
水神の森の対岸に、真崎という町があった。この町は浅草の北に位置し、昔奥州へ行く旅人たちは、真崎にある橋場から渡し舟に乗って隅田川を渡り、水神の森の南にあった渡し場へ上陸した。この絵の手前の道を歩いている人々は、この渡し場へ向かっている。この渡しは隅田川を渡っていた渡しの中で最古の渡しで、その名前は水神の森側からは「水神の渡し」、対岸の真崎側からは「真崎の渡し」、別名を「橋場の渡し」と呼んでいた。
広重は近景に八重桜を大写しに描き、遠景に筑波山を描いている。筑波山が果たしてこの方向に見えたか否かは疑問で、広重は構図上から意図的に移動させて描いたものと思われる。
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