隅田川に架かる両国橋の両端の橋詰は、いずれも両国と呼ばれ、東詰の両国には回向院(えこういん)が建っていた。この寺は明暦三年(1657)のいわゆる明暦の大火で、焼死したり、隅田川で溺死したりした10万8千人の死者を埋葬し、回向するために、幕府の命令で建てられた寺である。
寺の境内では、寺社を建立するとか、修復とかという目的のために、寄付を募る勧進相撲が、幕府の許可のもとに寛政三年(1791)に始まった。当初この境内に、相撲のための恒久的な施設があったわけではなく、興行を行なうごとに、高さ一尺八寸(54cm)、直径十五尺(4.5m)の円のある土俵が、境内の中央に作られ、その周囲に桟敷が木で作られ、桟敷の周囲は蓆(むしろ)が張られていた。相撲の興行期間は10日間であり、雨天順延で、晴天日のみ行なわれたので、「晴天十日」なる語が生まれた。相撲の開始を知らせるためと、観客を呼び寄せるために、境内の一角に高い櫓が組まれ、櫓の上では、朝早くから櫓太鼓を叩く音が鳴り響いた。
鳥瞰図であるこの絵は、前景には櫓を、またその下を流れる隅田川には、混雑している舟を示している。隅田川の対岸に見える、薬研堀の出口に架かっている橋を柳橋といった。薬研堀(やげんぼり)の左岸に柳の木が立っていたことから付けられた名前である。この橋の両脇の袂(たもと)には料理屋が多く、この料理屋街を柳橋といった。しかし別の料理屋街が、ここより北の神田川の河口にでき、そこを柳橋というようになったので、ここは元柳橋と称するようになった。
例によってこの絵にも雪に覆われて堂々とした富士山が真中に描かれている。
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